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【小説】すべてがFになる 感想~森博嗣の傑作理系ミステリィ!※アニメ版のネタバレあり

すべてがFになる (講談社文庫)

神に最も近い頭脳を持つ天才プログラマー・真賀田四季博士。彼女が住まう孤島で起きた殺人事件の謎を、犀川と萌絵のコンビが解き明かしていくミステリィ小説。『すべてがFになる』その言葉が意味するものとは・・・

すべてがFになる 講談社文庫
作者:森博嗣

※アニメ「すべてがFになる」、及び小説版のストーリーやラストに関するネタバレ含みます。未読・未視聴の方はご注意ください。

すべてが新しいミステリィ小説

アニメを観ている途中に注文し、放送を全話観終わってから・・・と封印していた封筒を、ようやく開封しました!いま小説を購入すると、上記の画像の表紙の上に更にもう1枚、浅野いにおさんが描いた犀川先生と萌絵のイラストが付きの黄色い表紙がついてくるようです!表紙が2枚とか、なんかちょっとお得!

この小説が発表された1996年当時は、今ほどコンピューターの知識を持っている人間が多くなかった時代。そんな時代にコンピュータがカギとなる大胆なトリック、そしてネットが人々の生活を変えるという確信が込められている作品と言うのは画期的だったのではないでしょうか?(因みに、「ミステリー」という単語は原作では必ず「ミステリィ」となっていますが、wikiによると、理系の分野では外国の単語をカタカナにする場合、長音の「ー」は省かれるからなのだとか。文字の表記スタイルから理系とは!)

アニメ版では解けなかった謎

原作を読み終えて、アニメを見て解らなかった部分や納得できなかった部分がだいぶスッキリしました。アニメ版から観た人間にとっては驚愕の展開だったところもありつつ、主にアニメ版との違いを中心に原作の感想を交えながら、以下では原作を読んで解明した謎部分について述べていきます。

色が象徴するもの

原作でも使用されている、「色の名前」が入った各章のタイトルですが、アニメ版の10話の「紫苑色の真実」のみアニメオリジナルのサブタイトルだったようです。紫苑が十五夜草とよばれていると知った時はシビれたので、このオリジナル要素は良かったと思います。

原作でも意図的に使われる「色」ですが、以前わからなかった謎の一つに「アニメのテーマカラーがなぜ黄色だったのか」というものがありました。アニメではくすんだ色合いであまり目立って描かれていませんでしたが、実は黄色は四季の部屋に通じるドアの色でもあります。アニメでは色味もあってかドアの色はそれほどインパクトもなく、あまり印象に残りませんでした。が、原作を読むと「黄色いドア」という言葉が何回も登場します。文字媒体なので当然ですが、原作ではこの「黄色」という言葉自体が視覚的な意味で非常に印象に残りました。

そして原作でも登場した黄色いブロック

アニメでは最後に四季から手渡された黄色いブロック。原作では犀川先生が四季の部屋をチェックしていた時に、何となく持って帰ってしまったもの。そして、原作の最後の行でそのブロックは「兵隊になれなかった孤独」と表現されてしました。

これらを踏まえると「黄色」という色は、四季の自由を象徴する色だったのかな、と原作を読んで思いました。そして一つだけ残されたブロックは、何かを形成する一部分(本来は社会という群れに属するはずの人間)が、自由=孤独に生きていくという暗示なのか・・・とも。

人形が殺したという言葉の謎

「両親を殺したのはお人形さん」という発言の趣旨・・・こちらもアニメだけではよくわかりませんでしたが、原作では、四季は子供が出来たことを「両親が喜んでくれるもの」と思い報告し、逆に殴られて酷く怒られてしまいます。そしてナイフを握るのですが、四季はそこで動けなくなってしまう。其の手を握り、両親を殺したのが新藤所長。

アニメでは四季は最初から両親の殺害を計画したような描写があり、かなりノリノリ(?)で母親を刺していました。父親も、新藤所長と二人で殺しています。

ですが原作では、動けなくなった四季の代わりに所長が殺人を犯したという内容になっています。誰かに操られるままに殺した・・・だから「お人形さんが殺した」ということになったわけですね。

犀川先生の中の"人格"

アニメで先生の推理シーンに現れたダチョウの群れや原始人のダンスのような映像・・・原作ではこのシーンで、犀川先生の中の荒々しい「原始の人格」と呼ばれるもう一人の自分のようなものが暴れている描写がありました。アニメのダチョウの演出は何か意図がありそうなのに何を表現しているのかずっと謎でしたが、おそらくダチョウは犀川先生のこの「原始の人格」の凶暴性の描写だったのかな、と思います。

原作とアニメ版との違いについて

アニメはほぼ原作に沿った内容ではありましたが、30分×11話に収める為に色々と変更は加えられていました。その中でも違いが目立ったもの、個人的に衝撃の展開だったものをいくつか述べていきます。

山根さんの扱い

アニメから入った人間には「うええええ!?」って叫ぶほどに衝撃だった、山根さんが第3の犠牲者という展開。アニメ視聴後、ドラマ版のあらすじをみた時はドラマ版のみの改変だと思っていたのに!

この点については、アニメ版で山根さん生存ルートにしたのは最高に良改変だったと個人的には思います。原作では山根さん殺害の動機が「外へ出るための時間稼ぎ」だけだったので、四季がたったこれだけの理由で殺してしまうと、ただ自分の都合の為に殺人を犯しているという、推理小説でよくいる「計画が狂ったことで余計に殺人を重ねてしまう殺人者」と同じ印象になってしまう。四季ほどの天才なら、やはり無意味な殺人は避けれるでしょうし。(べ、別に山根さんが好きとかそんなんじゃないんだからねっ!!)

弓永さん

アニメ版ではちょろっと登場しただけで、奥さんの存在すら端折られたお医者の弓永さんですが、原作ではかなり萌絵に紳士的だったり、犀川先生と共に推理したりと大活躍。重要なキャラの一人でした。原作から先に読んでいたら、犯人かと真っ先に疑うようなポジション。(そういえばアニメを見たときもバッチリ疑ってたっけ・・・)

VRカート

ヴァーチャルの演出はアニメと原作ではかなり違いました。原作では仮想空間でゴーカートするVRカートと呼ばれるゲームで、顔も登録されている写真をぺたっと表面的に貼ったものでしたが、アニメでは近未来の電脳空間のような、脳内の映像を直接見る事ができるというハイテク機械へとレベルアップ。また終盤、四季とヴァーチャル空間でやりとりしたのはアニメ版では萌絵と犀川先生のみでしたが、原作では探偵(犀川)が関係者を集め、犯人と相対するという推理小説の王道パターンとなっており、水谷さんや島田さん、萌絵の叔父や儀同さんも参加しています。

原作でこの時登場した四季は、所長の奥さんに「おば様が一番優しかった」と発言したり、関わりがあるメンバー一人ひとりに感謝を述べるなど、かなり優しげな大人といった印象。(ですが上記の発言からすると、両親との関係は、元々あまり良くなかったのかもしれません)

他にも原作の四季は、萌絵が始めてVRカートにログインした際に、ミチルと名乗って接した時も優しげな様子で、どちらかといえば忘れていた記憶を思い出させてあげようというような感じでした。アニメ版では容赦なく萌絵に現実を追い詰め、さらに自分の元へ勧誘するなど、全く逆の演出でしたね。このヴァーチャル空間のやりとりはアニメ版はほぼオリジナルといっていいと思います。

個人的には原作の「名探偵、みなを集めてさてといい」のような全員集合シーンも悪くないです。特に、水谷さんが実は四季に白熊のぬいぐるみをプレゼントしていて、四季がそのぬいぐるみを大切に持っていたことなど、アニメではスポットがあまり当たらなかったキャラと四季との関係が垣間見えるシーンが多く、アニメ版を観てトリックが明らかになったあと読んでも十二分に楽しめました。

犀川先生のネット主義(?)

原作で唯一気になったのは犀川先生のネット崇拝ともとれる発言。アニメでも人は閉じこもるべきというような発言がありましたが、移動しなくても生きていける土地や食べ物・インフラがあるのなら可能だけれど、それって結果生存できる人間の数はもの凄く減るし、自分が移動しない分誰かが移動しているだけなのでは?と、この考え方はかなり疑問でした。

この辺りの過剰気味な犀川先生の発言は全てアニメではカットされていたので、これも上手い改変だと思いました。当時と今ではネットの普及率は段違いですが、それでも原作の先生の台詞はちょっと首を傾げるもの多いです。その代わり、萌絵とのやりとりや四季への憧れなど、二人の女性との関係性はアニメ独自の展開として増やしていたのはよかったと思います。

最後に!

原作、やはり抜群の面白さでした。アニメを見てからでも十分に楽しめます!そして原作を読んでみて改めて思ったのは、アニメはいい所だけを見事に使い、足りないところを綺麗に補っていたということ。特にヴァーチャル機械での突然の水着回や山根さん生存ルートの改変はアニメスタッフさんに感謝です。

漫画や小説のアニメ化の一番良い所は、こうやって未だ読んでいない素晴らしい作品を知るキッカケをくれるところですね。

原作では「Fになる」以降も犀川先生と萌絵、そして四季の活躍は続いてくようなので、コメントで教えて頂いた続編の順番で、これから少しずつ読破していきたいと思います!

↓アニメ版の考察記事はこちら!